何故日本人には縦乗りではない人もいるのか
関西のジャズシーンは、インチキ中華料理と同じだ。そのことを関西の人でも判るように説明してみようと思う。
羊頭狗肉
2009年に初めてベルリンに行ったとき、タイ料理屋がいっぱいあることに気付いた。それで私はその時すでに5年くらいタイ放浪したあとで、タイ語が話せるようになっていたので、勇んでタイ料理屋に入って話しかけた。そうしたら店主はタイ語が話せない人だった。要するに中国人だった。料理は全くタイ料理ではなかったし、タイで見たことがない料理ばかりだった。
店主の中国人に「てめーこれのどこがタイ料理なんだよ!明らかに中華だろ!」と文句を言おうと思ったけど、料理は明らかに中華料理としては美味かったので、黙って食べて帰ってきた。味は決して悪くなかった。 その後もその料理屋には何度か行った。
ベルリンには日本料理屋もたくさんあったが、どれもこれも中国人がやってる店で、明らかに日本料理ではない料理を出していた。
中華料理屋の店名の決め方
以前ビエンチャンに『昆明飯店』という中華料理屋があった。 大変に美味い麻婆豆腐を出す店でご飯食べ放題で、私は大好きだった。ビエンチャンに行った時は必ず寄っていた店だった。
当時私は既に昆明に何度か行ったことがあったのだけど、出している料理は明らかに昆明のダイルー料理・昆明名物米線とは違う。明らかに超美味い本格四川麻婆豆腐屋だった。 何度も通って店主となかよくなった後で店主に「何で昆明飯店という名前にしたの?」と訊いてみた。そうしたら意外な答えが返ってきた。
ビエンチャンには四川人がほとんどいない。だけどビエンチャンには昆明人が働きに来ていることが多い。だから『四川料理屋』と書くとみんな店に入ってくれないので『昆明飯店』という名前にしたのだ、という。 …なるほど!と思った。
コミュニケーションのチャンネル
タイ料理屋と書いてある店に入るとき、私はタイというコミュニケーションのチャンネルで店に入っていく。 しかしそれがタイ料理ではなく中華料理だったとしたら、どうだろうか。次々に提供される偽のタイ料理。明らかにタイ料理ではないメニュー。タイ語が全く通じない店主。「お前は一体タイの何なんだ。」 その体験は、はっきり言ってしまえば、完全に不愉快の領域に入る。
しかしそこで機転を利かせ『中華料理』というコミュニケーション・チャンネルに切り替えたとしたらどうか。XO醤が効いているなかなか美味い野菜炒めだった。中華料理として見るとそれは水準以上であり、 それは、そこまで悪い体験ではなくなる。
そこでコミュニケーション上で期待するチャンネルがあり、実際に行われているチャンネルがあり、それらが一致していない時に不愉快な体験が生まれる。だがそこでチャンネルを切り替えてしまえば、それは素晴らしい体験にかわる。それは実はさほど大きな問題ではない ─── チャンネルの切り替えさえ出来るならば。
だけどもし私が、本物のタイ人といっしょにいたら、どうだろうか。彼はタイ人だから私のようにコミュニケーション・チャンネルを、タイから中華ヘと機敏に切り替えられないかも知れない。そうしたら彼は、不愉快な体験から逃れられない。
─── それは実際に2009年のベルリンで私にも起こっていた。 私は日本人だ。ベルリン中に、中華料理を日本食と言って売りつけている中国人が大勢いた。私個人としては、タイ料理に対する客観性がまだあるので、タイ料理を中華料理だと思って食べることも出来る。だけど自分にとって日本食はとても馴染みがある。だから中華料理を日本食だと偽って出されると、精神的にかなり苦しい状態に落ちる。
コミュニケーション・チャンネルと不気味の谷
エセ日本食料理屋とはいえ、ここはかなり変わった中華料理屋なのだ…と思ってしまえば、それはさほど大きな問題ではなくなる。これもまた事実だった。 日本食に日本食であることを一切期待しない ─── これが実現できれば、違和感は消え、素晴らしい体験に変わる。
だが提供されるエセ日本食が、本物に近付けば近付くほど、違和感が強くなるのも事実だった。完全に違ってしまえば諦めもつく。だがある程度のクオリティがあると、それが日本食を彷彿させる要素が増える。すると日本食を期待しないことが非常に難しくなる。
また自分自身が日本人であることも大きく関係する。自分が(ネイティブと呼ばれるほどに)その文化に深くコミットしていればいるほど、そこから離れることが難しくなる。自分自身が日本人だからこそ、日本というものを客観視することが難しくなる。
自分が食べているエセ日本料理に、日本を彷彿する要素が増えれば増えるほど、自分自身を日本人のコミュニケーション・チャンネルに引き戻すトリガーが増える。 私が必死に『日本料理』から『中華料理』というコミュニケーション・チャンネルに切り替えようとしているのに、その料理の日本と似て非なる味付けが、私を嘲笑うかのように、私を日本人のコミュニケーション・チャンネルに引きずり戻すのである。
コミュニケーション・チャンネルが日本人に戻ってしまうと、「何故出汁がかつおだしじゃなくて鶏ガラなんだ」とか「何故だいこんが入ってないんだ」とか「寿司のメシを固く握りすぎだ!」というような、日本人として普通に期待すべき品質がそこにないことに対して発生する不快感が暴走する。
似ていれば似ているほど不快感が強まるという現象がそこにある。完全に同じであれば不快感は全くなくなるのだが、似ているのに完全に同じではないと、本物にある良さを感じたいのに感じられないという不快感が強まる。楽しみたいのに楽しめないストレスが、不快感として強く感じられるようになる。
これは
氏の
と同じ現象ではないかと私は考えている。
縦乗りジャズと不気味の谷
私はジャズが好きで、自分でもジャズを演奏するし、日常的にジャズを聴いている。文学的な要素が強くそこに歴史に結びついた奥深さがある。それを追求して深く知ることに、喜びを見出しているのである。
そういう私にとって、日本人が演奏する縦乗りジャズは、拷問以外の何者でもない。踊りたいのに踊れない。楽しみたいのに楽しめない生殺しのような日本人の演奏するジャズのリズムは、端的に地獄である。
─── だが、これは中華料理を日本食と称して提供する中華料理屋と同じ違和感と考えたらどうか。
もしそうだとしたらつまり、もしもこれを仮に『演歌を聴いている』と自分のコミュニケーション・チャンネルを切り替えて聴くことができたら違和感は払拭される筈だった─── 実際にやってみると、このアイデアはうまくいくことがわかった。インチキジャズも、演歌として聴いてみればとても良い音楽だった。それはベルリンのエセ・タイ料理を出す中華料理屋にて、「今私はタイ料理を食べているのではなく、中華料理を食べているのだ」と頭を切り替えてしまえば、エセタイ料理であろうが無関係に、美味しく食べられることと全く同じ原理がそこに働いている。
ところがここにもうひとつの問題があった。演歌的縦乗りジャズはしばしば『本格的な』『本物の』『東京の』という形容詞がつくことだ。
エセ日本食を食べているときに、コミュニケーション・チャンネルを切り替えることで、中華料理を食べていると思い込もうとしているのに、そこに『本格的日本料理』『本物の日本料理』『東京の日本料理』と枕詞が置かれていることは、頭の中の切り替えをひどく妨害する。 ─── これと同じことが演歌的縦乗りインチキ・ジャズにも起こるのである。
ここにひとつの縦乗りジャズの傲慢が指摘できる。
関西の語彙領域的侵略
演歌的縦乗りジャズと、普通のジャズが棲み分けており、お互いの領域を尊重している限り『中華的日本料理』のようにお互いの領分を侵略せずに棲み分けることが可能だ。 ─── 問題はその中華的日本料理が「これが本物なのだ」と宣言したときに始まる。
本物ではないジャズを演奏しつつ本物を名乗る ─── 本物を名乗らなければ問題とならないのに、『ジャズ』という語彙領域の棲み分けを守らず、傲慢にも『我々は本物だ』と宣言してしまうことを、ここでは語彙領域の侵略と呼んでみたいと思う。
私は、演歌的縦乗りジャズを演奏しつつ「本格ジャズ」を名乗る人の大半が関西人であることを観察している。これにはっきりした数字で表せる具体的な根拠はない。しかし私は江戸っ子でもあり、関西人とのはっきりした文化的な区別を感じながら生活しているが、同時に私の祖父が関西人で、家柄としては西日本の商人の生まれだった。なので私は生来、関西人と関東人の区別に非常に敏感だということがある。 ─── そんな私の体感上で、演歌的縦乗りジャズを演奏しつつ本格ジャズを名乗る人の大半は関西人である。
私が執筆したリズム批判を読んだある関西の方から「東京は東京の音楽、大阪は大阪の音楽で別々にやったらええやないすか。」という申し出があった。私はその申し出に賛成だ。だが問題の本質は、大阪ジャズのコミュニティの人々がしばしば「本物」「本格」「東京」という前置詞を自分たちの音楽の名前に冠したがることだ。
明らかに本物ではない関西的縦乗り演歌ジャズを演奏しつつ「本格ジャズ」を名乗るということは語彙領域の侵略であり、関西人がいう「関西と関東は別々でええやないすか」という棲み分けのルールを逸脱している。
関西式縦乗りジャズを『これはこれ、ではダメなんですか?』とうそぶく関西人でも判る例えで表現するなら、関西人の縦乗り演歌ジャズは、関東人が喋るエセ関西弁とまったくおなじといえる。
関東人が自分で自分を「エセ関西弁だ」とカテゴライズしているなら、問題は何もない。だがここで関東人が「ワシの関西弁は本物や!」と言い放った時に本当の問題が始まる。
「だから何なんや!」そういう人もいるかも知れない。しかしこんな場面を想像してみて欲しい。
関東人が真顔で「関西弁が間違っててスマンヤデー」と言い放ち、次いで「いやー!もう僕、完全に関西人になっちゃったなー! え?別に多少間違っててもいいじゃないですか。これはこれ、ではダメなんですか?」…と関西人に言い放ったら、どうだろうか。
私の知る限り、関西人はほぼ全員例外なく激怒する。
何故そこで関西人が激怒するのか。それは関西弁という関西人のアイデンティティに関わる重要な語彙領域を関東人のアイデンティティが侵略したからだ。
全く同じ事が関西式縦乗りジャズにも言える。枕詞として「東京」「本物志向」といった前置詞がついていなければ、そこまで問題とはならなかった筈の音楽に「東京」「本物」と言ってしまったことに問題の本質がある。
「本物」という名を冠しながらアイデンティティの侵略とならないようなクオリティを実現する為には、特別なデリカシーと配慮が要求される。
コミュニケーション・チャンネルとリズム
関西ジャズは演歌や音頭のリズムと同じ構造を持っている。これは関東・東北の人が演奏するジャズと互換性がない。 この2つのリズムの原理にはPセンターの位置の違いという根源的な違いがあることから、物理的に同時に演奏することが出来ない。
関西のリズムが、雅楽などの中国大陸の音楽に起源を持っていることに対し、関東・東北の音楽は、より日本現地人のリズムに近付いていく。日本国内であっても、北上すればするほど、そのリズムは、よりアイヌ・カムチャツカ・イヌイット・イテルメン・イヴェンキ・ ネイティブアメリカンの人々の所謂『海外の横乗りリズム』に近付いていく。関西のリズムの起源をたどると、それが中国の古い伝統音楽から受け継がれており、古くなればなるほど『中国の縦乗りリズム』に近付いていくのと同じだ。
これはそれぞれ別々なコミュニケーション・チャンネルを持っていると言える。 関西ジャズを関西ジャズ(演歌)というコミュニケーション・チャンネルで接すれば、それは素晴らしい演歌として楽しむことができる。エセ関西弁も、関東のコメディというコミュニケーション・チャンネルで接すれば、素晴らしいコメディとして楽しむことが出来る。
ここで関西ジャズのクオリティが上がり「本物」に近付いた時、それは「演歌」なのか「ジャズ」なのか、その境界線が曖昧になる。あるいはエセ関西弁のクオリティが上がり「ほんもの」に近付いた時、それは「関東式エセ関西弁」なのか「本物の関西弁」なのか、その境界線が曖昧になる。
ここで初めて、コミュニケーション・チャンネルを切り替えることでは解決できない問題がそこに立ち現れる。 ─── ここで始めて、関西と関東のリズムの違いの本質がどこにあるのかその境界線を、限界地点まで徹底的に探る必要が生じる。
以下で、そのリズムの境界線がどこにあるのかを探ってみよう。
関西人のリズム盲点が持つメカニズム
関西人のリズムはおかしい。私がそういうと「何故そんな他者の気持ちを踏みにじる様なことを言うのだ」と大勢の人々から責め立てられる。だが関西人ジャズが放つ違和感の強烈さは、筆舌に尽くしがたい。
根拠なく批判するのか!と責められ、何故この問題が起こるのかを分析し始めたが、この問題の背後に横たわる原理は決して簡単ではなかった ─── 私はこの関西人が演奏するジャズが持っている強烈な違和感を定量化して言語化する為に、私の人生の大半を費やした。
何故関西人は、自分の縦乗りに気付かないのか。それは私の分析によると、日本語の標準化が関西から始まったことによる。
関東弁は方言である
日本語の方言の研究で有名な
によると、日本語は日本土着の現地語を中国の発音で標準化したものが始まりだという。こうして関西から広まった日本語が、後に関東に遷都し、関東方言が標準語として取り決められた。つまり現代の日本語の標準語は、歴史的に見ると方言なのだ。
- 京都時代の日本語標準化(794)
- 江戸時代の日本語標準化(1603)
- 明治時代の日本語標準化(1868)
- 戦後の日本語標準化(1945)
京都時代の日本語(関西弁)は1000年近く使われてきたのに、実は東京時代の日本語(関東弁)は使われ始めて400年程度しか経っていない。つまり関西弁の方が文法や発音の正規化が進んでおり、関東弁の方が正規化されずに残った発音要素が多いということが予想出来る。
このことを民謡のリズムから見ることもできる。
によると日本の民謡は大きく分けて2種類あるという。私はこれに、私のリズム解釈を加えて3つに分類した形式を使っている
- 追分形式 ( 刈干切歌や江差追分などの無拍子)
- 八木節形式 (強いバックビートが強調される)
- 雨だれ形式 (お経・音頭・演歌)
追分形式は所謂日本の「縦乗り頭合わせリズム」とは程遠いリズムの形式を持っている。また八木節形式も同様に「縦乗り頭合わせリズム」とは程遠い、拍の長さが伸縮するバックビートを持ち、分割拍子・ポリリズムを持っており、これも「縦乗り頭合わせリズム」とは程遠いリズム形式を持っている。
一方、日本の縦乗り頭合わせリズムは、拍の長さが伸縮するバックビートを持たず、拍の長さが均一という特徴があり、雨だれ式と極めて近いリズム形式を持っている。
以下で説明する仮説は、飽くまでも私の体感に基づく推論でしかなく客観性がない。しかし日本全体の文脈を遠目で眺めてみると、私には次のような構図が見えてくるように感ぜられる。
追分形式や八木節形式を地元の民謡文化として持っている地域の人は関東・東北・九州に多い。このリズム形式を持つ人は、雨だれ形式の音楽をはっきり見分けて区別して敬遠する。
一方雨だれ形式の音楽を地元の民謡として持つ地域は主に関西であり、雨だれ形式の人は、追分形式や八木節形式のリズムとの違いをはっきり理解できず、見分けて区別することが出来ない。
何故関西人(雨だれ)は東北弁・関東弁(追分形式・八木節形式)を区別できないのか。これは関西弁のほうが先に標準語として制定されたからではないかと私は推察している。
この仮説を検証する為には、日本語のモーラ拍リズムについて、もうすこし深い理解が必要だ。
日本人リズム問題の正体はモーラ拍リズムとその浸透度の違いにある
日本語の発音の地域差とリズムの地域差を考える時に重要となる概念は、モーラ拍リズムとその浸透度だ。まずモーラ拍リズムとは何なのかを見てみる。
日本人が演奏するジャズのリズムの違和感は、基本的に日本語が持っている「モーラ拍リズム」という発音上のメカニズムが影響している。日本語は文字数(モーラ数)を意味として解釈するため、単語を正しく解釈する為には、全ての音節が同じ長さで統一されている必要がある。
例えば「兄は安易です」という文章があったとする。これを正しく聴き取る為には「あにわあんい」と6文字あることを認識しなければいけない。だが、外国の人々は音節が等間隔であるというルールに馴染みを持っていないので、この「あにわあんい」という文章を正しく発音することがとても難しい。
これは日本語という言語に対する客観性を持たない日本人には理解が難しい。
兄と安易はローマ字で書くと実は全く同じ音節型を持っていることがわかる。
- あに(A,NI)
- あんい(A,N,I)
どちらも A N I なのだ。違いは字数(モーラ数)の違いだけだ。
これを外国の人が発音すると十中八九「アニワアニデス!」になってしまう。A,NI(2モーラ) と A,N,I (3モーラ)の区別がつかず、どちらも2モーラのA,NIになってしまう。何故こういうことが起こるかというと、海外の言語の大半は音節(拍)の長さが様々な要因によって変化するストレス拍というルールを持っているからだ。「ワターシワァ?エイゴォウォー?ハナーシマスゥ」の様な話し方をするのは正にこの拍の長さが伸縮するストレス拍がここにあるからだ。
音節の長さが変化してしまうと、モーラ数を数えることができなくなる。2拍のアニなのか、3拍のアンイなのかが区別出来なくなる。
そして海外の言語には、大抵日本語とは全く真逆の「頭子音最大化原則」という発音ルールがある。海外の言語はしばしば、全ての末子音を次の音節の頭子音としてまとめて発音するというルールがある。この暗黙のルールのことを「頭子音最大化原則(リンキング)」という。
このルールが発動すると、アニとアンイは両方とも2拍になってしまい、違いがなくなってしまう。
この様なモーラ数の変化による単語の混同が起こらないよう、確実にモーラ数を維持する為には、この頭子音最大化原則の真逆のルール=『頭子音最小化原則』を守る必要がある。頭子音最小化とは、全ての二重子音・末子音・リンキングを、可能な限りモーラ単位で分解して整理することによって、モーラ数の混同を防ぐ為のメカニズムのことだ。
頭子音最大化原則とジャズ
ジャズは弱起とシンコペーション自体が素材になっている音楽だ。この音楽のリズムは英語の頭子音最大化原則と非常に関係が深い。ジャズは英語の俳句と言って良い文化で「言語のリズム自体を素材として使って言語上のリズム遊びを行いながら踊る」という前提がある。
- 長いピックアップ
- 強い弱拍先行
- 長さが変化するバックビート
これらは全て拍の長さが伸縮するストレス拍リズムの語法に基づいている。
だが日本人がジャズを演奏すると、無意識の内にこのジャズのリズムをモーラ拍リズムで整理しながら演奏しようとする。全ての弱起と全てのシンコペーションを等間隔に揃え、不明な点が一切ないように整理して演奏しようとする。
- ピックアップを排除
- 強拍先行を維持
- 等間隔で整理されたバックビート(ポケットに落ちない2・4拍)
これらは全て拍の長さが伸縮しないモーラ拍リズムの語法に基づいている。
本来ジャズには、様々なリズム上の不明な点を残した状態で、その不明な点を聴く人が能動的に予想することを楽しむという趣旨がある。全てのリズム上の不明点を整理して明らかにすることは、所謂「ネタバレ」と同じ行為であり、趣旨に反する。
これが日本人が演奏するジャズにおけるリズムの問題の正体だ。
だがこの問題は全ての日本人に等しく起こる訳ではない。日本国内でもジャズのリズムを認識出来る人と出来ない人の分布のばらつきある。日本人は必ずしもピックアップを演奏しないわけではない。
地域によってピックアップを好んで演奏する地域があったり、弱拍先行が強い音楽を演奏する地域があったりする。何故地域によって音楽の縦乗り度が高い地域と低い地域に偏りが見られるのだろうか。
それは日本語のモーラ拍リズムの浸透度が地域によって異なるためだ。
母音の無声化
モーラ拍リズムの浸透度を理解する為のキーワードは、母音の無声化だ。母音の無声化を見ることで、モーラ拍リズムの浸透度の違いを観察出来る。
日本語、特に関東方言では、関西方言のように必ずしもモーラ拍リズム化による標準化が浸透していない。何故ならば、日本語の標準化が京都から始まったからだ。だから京都から遠ざかれば遠ざかるほど、歴史的標準の発音『モーラ拍リズム』から遠ざかる。
モーラ拍リズムは、モーラ音節のなかで「子音+母音」という組み合わせを守るというルールでモーラを作る。だが関東方言では、このモーラ拍リズムのルールが完全でなく、いくつかの例外がある。そのひとつが母音の無声化だ。
- 肩(kta)
- 〜です(dess)
- 〜でした(de sh ta)
関東方言ではこのようにしばしば末尾のモーラの母音を発音せずに末子音のように発音する。
日本語は、英語やフランス語などのシラブル拍リズム・ストレス拍リズムの言語と比較して、母音がより長く、子音がより短い傾向がある。だけど関東方言では、母音の無声化があるなどの理由によって、近畿方言よりも子音が長く母音が短いという傾向がある。
この様にモーラ拍リズムの浸透度には、方言による地域の偏りが存在する。
これが音楽のリズムに影響を与えているのではないか、と私は考えている。この様な、日本語の中での方言の発音の違いが、八木節形式・追分形式・雨だれ形式という民謡の形式の違いとなって表れるのではないか。
─── 以上の説は、飽くまでも仮説だが、この仮説は日本の各地域のリズム感の違いを説明しやすくする。
リズム感の非対称性
私がぶつかる問題で最も頭を悩ませる問題は、関東人はしばしば関西人のリズム偏りを認識できるのに、関西人は関東人のリズム偏りを認識出来ないことだ。この現象を私はリズム感の非対称性と呼んでいる。
関東人は関西人のリズムに違いを認知しているのだが、関西人からは何も違いがないという様に認知されている。 私はしばしば、この認知の非対称性のことを『日本人の見えない犬のウンコ現象』と呼んでいる。
ここに犬のウンコがあると仮定する。明らかにそこに存在する犬のウンコは、明らかに異様な臭気を発しており、臭く、明らかにそこに存在している。そして、それを摘み上げる。そして彼の鼻先に突き出す。臭い。汚い。「ほら!犬のウンコだぞ!」しかし彼のリアクションはこうだ。「どこに犬のウンコなんかあるんですか?」 まったくそこに犬のウンコがあることが認知できない。
摘み上げたウンコを鼻先になじりつける。「ほら!臭いだろ!」 しかし彼はいう。「貴方は一体何を言ってるんですか?」 私は終いに、そのウンコを彼の口の中に放り込んでしまう。彼はそれでも気付かない「モグモグ! ゴクン! で、犬のウンコなんかどこにあるんですか?」
彼はそこにウンコがあることが見えないだけでなく、存在自体を認知できない。それを実際に「たべる」という物理的行為を通じて、その存在を体験しているのにも関わらず、ウンコが認知上存在しない為に、その体験自体を認知できない。
彼には、それを認識するための概念と、それを解釈する為のコミュニケーション・チャンネルがない。だからそこに存在することを認識すること自体が出来ない。
何故こういうことが起こるのか。
それは恐らくだが、歴史的に見ると関西弁のほうが標準語だからだ。 関東弁には標準化されずに残った発音要素が豊富に含まれている。だが、関西弁には同じ発音要素がない。それは標準化によって失われたのか、あるいは最初からなかったのかは不明だ。だが少なくとも、その時に対象となっている関東弁が持っている発音要素を関西弁は持っていない ─── その一例が、関東弁の母音の無声化ではないか。
関西人がその発音の違いを理解する為には、関西人は最初から持っていなかったその発音要素の解釈技術を1から作り直す必要がある。だから認識出来ないのではないか。
関西人のジャズがダメダメな理由
関西弁は、全日本の方言のなかでモーラ拍リズムによる正規化が最も長く行われており、モーラ拍リズムが最も深く浸透している。関西弁ではモーラ拍リズムのルールが厳密だ。しかし関東弁は京都時代の標準化が完全に行われていない。つまりモーラ拍リズムによる正規化が関西弁ほど完全ではない。関東弁は、モーラ拍リズムが関西弁ほど深く浸透していない。だから関東弁は、関西弁が持たないリズム要素を多く残している。
これは耳が痛い事かも知れない。だがこれは、関西から全国区にメッセージを届ける為には通り抜ける必要がある大きな壁のひとつでもある。
何故なら関西人が、関西で関西人同士でジャズを演奏していても、この関西人が持たないリズム要素の欠落に気付かないからだ。関西人はなかなか東京に来ない。東京まで来ても東京止まりでしかない。そこから更に北上し群馬・栃木・福島・秋田・岩手・青森・・・と移動することはほぼ絶対にない。北関東・東北・北海道は、関東以上に京都時代の標準化の浸透度が低い。関東以上に多様なリズム形を多く素のままの形で残している。だが関西人は、このことに気付かない。
だから関西人は、関東人が関東で東北人と日常的にぶつかりあうなかで気付くリズム差にも気付かない。リズム上で考えると、関西人はリズム的無菌状態といえる。リズムの多様さが残る関東・東北・北海道の多様なリズムとぶつかった経験がまったくない関西人は、関西地元の狭い雨だれ式リズムが如何に素晴らしさの説明に終止し、延々と関西外の文化に視点が向かない。
ミュージシャンとして、それでいいのだろうか。
関西のミュージシャンに訊きたい。何故ミュージシャンを目指したのだろうか。世界に羽ばたき、世界中の人々とコミュニケーションを取れる世界中の人と一緒にいる輝かしいミュージシャンを目指していたのではなかったか。世界中を平和にしたかったのではないのか。世界を救いたいと思っていたのではないのか。
この状態でどうやったら関西外の人々に伝わる音楽が出来るだろう。関西人のジャズは関西人にしか通じない。ましてや関西人以外と一緒に演奏することですらできない。
関西外の人とコミュニケーションを取るために
「何かリズムがあわへんねん!」
私は関西人から幾度となくこの言葉を聞いた。それで私なりに、どうやったら関西の人々が関西外のリズムを身につけることができるのか、一体関西と関東のリズムの違いの本質はどこにあるのか、私なりに分析してみた。
関西リズムから関東リズムへの移行を理論的にみると、拍の長さが固定長のモーラ拍リズムの概念から脱して、拍の長さが可変長のストレス拍リズムの概念へと移行することを意味している。
関西人のリズム認識とそれ以外のリズム認識は、Pセンター(Perceptual Center=認知中央=認知科学の用語)という概念によって説明することができる。関西人のリズム認識をポストセントリック(頭合わせ)、そして関東人のリズム認識は、よりプレセントリック(尻合わせ)に近いと説明することが出来る。
このリズム認識をプレセントリックに切り替える為の練習方法として私は、オフビートカウント法を考案した。これは音楽を8分音符1つ早く数えるという方法を使って、自分のPセンターの位置を移動する実践トレーニング法のひとつだ。 私はオフビートカウントを実際に色々な方々と一緒に練習を行ってみた。結果、一定の効果は認められた。
このオフビートカウント法は、非常に複雑であり、学習と習得には相当な忍耐力と根気を必要とする。そこでこのオフビートカウントの練習方法全体を、道として体系化した。それがこのリズム道だ。
続く
- (ドラフトv1 2026/07/29 07:53:21)
- (ドラフトv2 2026/07/29 15:58:59)
- (ドラフトv3 2026/07/29 16:51:38)
- (ドラフトv4 2026/07/29 18:06:51)
- (ドラフトv5 2026/07/29 19:14:53)
- (ドラフトv6 2026/07/30 14:56:07)
目次
- オフビートカウント理論
- はじめに
グルーヴ九大原則 とは- 何故日本人は縦乗りなのか
- 何故日本人には縦乗りではない人もいるのか
強拍が先か弱拍が先か - 音韻学的音楽分析
- 日本人への手紙
分裂拍 と孤立拍 韻律 とは多層弱拍基軸律動 - 多次元ディヴィジョン空間
- 発音よりもリズムの正確さ
- 世界は3⁻ⁿ拍子で出来ている
- 3⁻ⁿグルーヴと2⁻ⁿグルーヴ
- 分散グルーヴ理論
- 弱拍天動説と強拍地動説
- オフビートカウント入門
- リズム認識型とリズム感
- オフビートカウントで英語リスニングを極める
- 日本人の為のエチュード
- 英語の正しい発音法
- オフビートカウントの正しい発音
- 多層弱拍先行ポリリズム
- リズムニュアンスを形づくる要素
- 縦乗りが起こるメカニズム
- 縦乗りと動きの認識
- 縦乗りがもたらす心理的問題
- リズム道入門の御案内
- リズム道とは